気がつけば、DIARYの更新が止まって随分経っていた。
最後は秋も深まった10月だったのだから、すでに半年が過ぎていることになる。そもそもブログの更新がだいぶ滞っていた時期なので、当たり前といえば当たり前なのだけれど。
相変わらず私の自由時間は深夜に訪れている。車の往来の音も遠ざかり、しんと静まる夜の底で好きな曲を流しながら緩く怠惰に流れる時間。丁寧な暮らしとは程遠いなぁと時々苦笑いしてしまうほど駆け抜けるように過ぎていく1日の中で、好きなことを好きなだけ想いながら過ごすこの時間を私はこよなく愛している。
今日の締め括りと明日への準備という日常をこなすためのあれこれを片付けて、今日はなんとなく珈琲を淹れた。カリカリと豆を挽き、ドリッパーを用意し、こぽこぽとお湯をくぐらせる。いつもより丁寧に入れた珈琲の香りが部屋に満ちていく。
好きな曲と好きな香りで満ちた大切な時間。最近では缶ビールのプルタブを引く夜が増えていたのだけれど、珈琲にしようと思い立ったのはたぶん5月のせいだ。母の日、誕生日、命日。母に纏わることの多い5月。私の中で5月は母の月。母を思い出すとき、いつもカップを両手抱えるように持つ姿が真っ先に浮かぶほど、母は珈琲が好きだった。子供だった私にとっての珈琲は母の飲み物、大人の飲み物という認識だったことを覚えている。
苦さばかりが際立つ「得体が知れない真っ黒な飲み物」であった珈琲を、好んで飲むようになったのはいつからだろう。好きになるなんて考えもしなかったのに、趣味も嗜好も無意識に形を変えながら少しずつ変化していくものなのだなぁとつくづく思う。苦手だったものを好きになり、好きだったものが少し遠のいていく。かつて好きだったものを懐かしいと感じるのは大人になったということなのだろうか。
最近は夜の隙間時間に創作することが増えている。とはいえ、いまだに文章を綴る時間はそう多くはなくて、絵を描いてみたり小物を作ってみたり、なんとなく手を動かしてものを創るということなのだけれど、何かを生み出すことは楽しい。仕事しかり、人との付き合いしかり、生きるということはとかく面倒なことが多いので、好きなことを好きなだけ想う夜の隙間では、なんとなく感じる息苦しさから解放されてゆっくり呼吸ができる気がする。
好きなことをただ純粋に好きでいられるのは、熱量の赴くままに好きを循環させ、何の制約もないからだ。それは他者が介入する余地のない自分本位な自己満足に他ならないけれど、だからこそ好きなものを好きなように愛でることができる。自分の時間を自分のために使って生きているような私でさえ、夜更けの自由時間を奪われたら生きるのが辛くなるだろうから、本当に好きなことは好きのまま閉じ込めておくことにしている。
平成が終わり、令和へと元号が移り変わった5月1日。始まりはまるで祭りのようだった。案の定、渋谷ではしゃぎ倒す人の群れがテレビから流れていたし、今もなお新元号に纏わる話題が連日報道されている。私にとっては特に代わり映えのしない1日の終わりであり始まりで、せめてブログでも更新するかなぁという程度だったけれど。
「令和」には「人々が美しく心寄せ合う中で文化は花開く」という意味が込められているそうで、万葉集の梅の花32首の序文からの引用されたらしい。なかなか美しいねぇと、案外わくわくするような気持ちで新元号を聞いていたのだけれど、平成ベビーか令和ベビーかという、人力ではどうすることもできないであろう話題が盛んに流れたりして、「子供を産む」ということに対してどこかひとごとである私は「親も大変だなぁ」などと考えていた。
「平成と同じように30年余り続いたとするならば、R18の年は成人向けみたいになるのかな」と、だからどうした?というしょーもないことを思いつつ、日進月歩で進化し続ける便利で物の豊かな時代を経て、願がわくば心豊かな時代になるようにと祈ってみる。
今頃何をしているだろう。起きたかな?寝てるかな?楽しいといいな、寂しくないかな。そんな風に想うことが当たり前の毎日で、息をするように彼を想う。そろそろまた日が変わる。今日も月は見えない。同じ日などありはしないとわかっているし、当たり前に過ぎる日常のありがたさは何度も感じてきた。だからドラマのような喜びもニュースになるような出来事も特に望まない。
ただ、ありふれた明日も穏やかな日でありますように。